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【映画は思考する Vol.1】 いちげんさん

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 小説の原作がどう映像化されるのか。そんな興味があった映画が『いちげんさん』だ。
 京都の大学で日本文学を専攻し、古都をこよなく愛する外国人の〝僕〟(エドワード・アタートン)と、盲目の女性、京子(鈴木保奈美)。この二人の出会いと別れを軸に物語は進む。
 
 僕が始めることになったのは、京子に文学作品を読み聞かせる「対面朗読」という風変わりなアルバイトだった。異邦人である僕が発する、どこか不安定なイントネーションがつきまとう日本語。その言葉を京子が耳で感じ取っていくシーンは、背景に置かれた京の庭のしっとりした風情にも溶け込み、対比の構図がおもしろい。
 ストーリーが原作にほぼ忠実につくられていたことが、この映画の美点と弱点の両面を浮かび上がらせている。活字で読んだとき、妙に想像力をくすぐられた朗読場面の官能性は、映像でも見事に再現されていた。ただ、小説の原題『一見さん お断り』が示す通り、僕が自らの意思とかかわりなく、周囲の日本人から異端視されてしまう〈断絶〉のモチーフは、活字での描かれ方が弱かったのと同様、「異質な存在」の僕がなぜいらだちを感じながら、それをニヒルに肯定してしまうのかという根源的な理由がつかみにくかったのだ。
 原作と映画の関係はどうあるべきなのか。少なくとも映像は、単に活字の「写し絵」であるべきではないのだろう。その意味で、活字の世界をもう一歩、映像が獲得できる視点で踏み出してみてもよかったのではないか。
 映画の最後の場面は、夜桜が舞い散る円山公園を、白いつえをついた京子が去っていく、あまりに美しいシーン。小説では、京子を見守る僕が、〈地球の反対側は今昼間だと、漠然と考えた〉という一節で終わる。この言葉のリアリティを映像に還元するのは、やはり難しいことなのだろうか。産経文化部の映画担当時代、2年にわたって連載した映画評「スクリーン」をここで紹介していきます。(今西)

2000年日本
監督:森本功
出演:エドワード・アタートン、鈴木保奈美、中田喜子

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